2020年初夏版の“雲州三色”
2020年6月6日、島根県出雲市在住の『雲州めだか』、野尻治男氏の飼育場に、一年一ヶ月振りにお邪魔させて頂いた。
野尻さんのところには、毎年、訪問させて頂いているのだが、それは毎年連休中、5月3日のことだったのである。
それが、今年は、コロナウイルスの影響で、外出自粛が叫ばれ、特に自分の住む神奈川県横浜市は、例のクルーズ船が横浜港に停泊していたこともあって、COVID19で最も注目されてしまう場所でもあった(汗)
そのため、『メダカ百華』制作のための取材旅行は大幅に減らしながら、メダカを送ってもらい、撮影後に返送するなどしながら、コツコツと写真を貯めながら、ページを作っていた。
野尻さんの作られる非透明鱗三色“雲州三色”は、岡山県笠岡市在住の小寺義克氏の作られる“あけぼの”と不動のツートップとしての座を確固たるものにしている銘品種である。
これまでにも野尻さんの作られる“雲州三色”についてのこのブログ記事でも、とんでもない閲覧数を頂いているのである。
https://piscesbook.com/archives/1997
この2017年5月6日に書いた“雲州三色”を初めて紹介させて頂いた記事は、閲覧数が159,618という数字を叩き出している。途中でカウンターを変更したので、実は1万ほど少なくカウンターに現れるのだが、一つの記事でこの数字は、当社のブログの中でも特別な数字なのである。
https://piscesbook.com/archives/2201
https://piscesbook.com/archives/7732
https://piscesbook.com/archives/12185
毎年、訪問時に、ブログにさせて頂いているのだが、全ての記事が5万超え!
それだけ“雲州三色”というメダカが注目されているということである。
例年より1ヶ月遅れの取材となったのには、コロナウイルス以外にもう一つ理由があった。
今年の連休中に、“雲州三色”の作出者である野尻さんが入院されておられたこともあり、更に訪問を自重しなければならなかったのである。
ゴールデンウイークが終わり、緊急事態宣言下ではあったが、群馬へ、名古屋へ、広島・岡山へと最短滞在時間を心掛けながら最低限の取材は進めていた。
そして、5月中には、144ページだった『メダカ百華』を160ページまで増ページしなければならないほど、記事が出来上がっていたのである。
しかし、完成間近になると、「やっぱり作り上げられない!」と強く思うようになったのである。
「野尻さんの飼育場で2020年版の“雲州三色”を見せて頂きたい!」という気持ちが強くなったという事も大きな要因であった。
しかし、こちらの都合で訪問を強行することは出来ず、まして、野尻さんが退院されてからすぐの訪問ということは絶対に出来ないことで、その時が来ることを切に願っていたのである。
「今回はダメなのか…」と思い始めることもあったが、諦めずにその時を待っていたのであるが…ようやく日本全国の緊急事態宣言が解除された後に、野尻さんのところに伺える機会を得たのである。
自分が昔からやってきた編集作業は、撮れた写真をただ選んで掲載するというものではない。
「こういう本を作りたい!」と台割りを作って、そのためのメダカを探し、より良い個体を撮影しながら、完成させていくのである。
『メダカ百華第9号』をジグソーパズルで例えれば、ほとんどのパーツは組み上がっているのだが、ど真ん中の一つのパーツがない気分でいたのである。
6月5日、もう一つの大きなパーツである福岡県古賀市在住の『Azuma medaka』の田中拓也氏の飼育場で6時間ぶっ続けで様々なメダカを撮影させて頂き、夜のうちに広島県福山市の宿泊先に移動した。
6月6日、『栗原養魚場』の栗原氏と新幹線で福山に来られた、のぶりんこと植木伸也氏と合流、一路、出雲へと向かったのであった。
“雲州三色”を初めて掲載したのが『メダカ百華第4号』だったのだが、その最初の訪問の際、栗原氏から「野尻さんのところに行かないか?」というお話を頂き、その言葉がきっかけで、『メダカ百華』の方向性が転換したことが懐かしい。
福山から2時間半ほどで出雲に到着!
すぐに野尻さんにご挨拶させて頂いた。少しお痩せになっていた野尻さんだったが、入院中は、病院食を食べられずに過ごされたと言われる。「不味くて食べられたもんじゃない」と言われる野尻さん、自分もその経験があるので、頷きながらも、元気を取り戻されておられる野尻さんとお会いできて少しホッとできた。
「今年は親父が出来るかどうかわからないんで、当初から良い個体からヤフオク出品してきたんで、撮影に耐えられる個体がいるのか心配…」と息子さんの野尻忠聡氏は言われていたのだが…
今年も素晴らしい“雲州三色”が池を泳いでいたのである。
同行された栗原さんものぶりんさんも「流石だね!」、「凄いです!」と感嘆の声をあげられていた。
こちらはもう興奮しながら、そして、ジグソーパズルのど真ん中のパーツを手に入れた感覚で、次々と撮影させて頂いた。
“雲州三色”という名前は既に広く知られている。そして、過去3年で野尻さんの魚を手にされ、殖やされた魚がヤフオクなどで出品されているのだが、三色系統、特に非透明鱗性の三色はその色柄、姿を維持することが特に難しく、野尻さん以外で、“雲州三色”らしさを見せるメダカの出品は全てをチェックしている訳ではないが、数点程度であった。
透明鱗三色も同様なのだが、三色系の色柄を維持するためには、特に数を採ることが最も重要で、数千匹採った程度ではなかなか維持は難しく、最低でも1万以上の稚魚を得て、選別淘汰をしながら、容赦なく理想から少しでも離れた個体は外していくことが不可欠なのである。
「“雲州三色”から生まれた子供は全て“雲州三色”」ではないのである。もちろん、印象の異なるタイプを選んでそれを累代繁殖していくことも楽しみ方の一つではあるのだが、その時には、“雲州三色”から出てきたものから累代した別タイプだということは認識していた方が良いだろう。
野尻さんは、メダカ以前は出雲ナンキンという島根県の地金魚の愛好会の会長を務めておられた方で、一匹のメスが数千から一万の卵を産む出雲ナンキンを現在の飼育場全部を使って仔引きされ、毎年、数匹から十数匹の納得出来る魚を作ってこられた経験から、“雲州三色”も、ほんの少しでも納得できないところがあれば、容赦なくハネられて、現在の系統を固められたのである。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g430120541
野尻さんが手塩にかけて育てられた“雲州三色”は
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g430120541
忠聡氏が5月以降のシーズンに出品できる個体がいなくなるまで定期的にヤフーオークションに出品されておられる。
少数から簡単に維持することは難しい三色系統の“雲州三色”、それでも、一度でも野尻さんの作られた“雲州三色”の本物を目にされれば、その魅力に触れることは出来るだろう。
そして、入手後はただひたすら種親の健康を維持しながら、採卵、採卵、また採卵である。
「それだけの価値がある三色」それが“雲州三色”なのである。
そして、文字はまだだが、ジグソーパズル最後のパーツをど真ん中にはめ込むことが出来たのである。
三色メダカでここまでの表現ができるのはすごいと思います。私の家でもきれいな三色を作るために三色だけは沢山の仔を採るのですが、今年は3匹くらいしか良いメダカはいませんでした。